バレーボールと私 −スポーツで育んだコミュニケーション /大林 素子さん

平成14年1月5日(土):北日本新聞

スポーツキャスター 大林素子さん

 私の身長は182センチ。小学校六年のときに170センチあり、立ち上がるとみんなから「デカバヤシ」とからかわれるので、休み時間も席に座っている根暗な子でした。友達もできず学校は楽しくない。遊びといえば家でテレビを見ること。当時はバレーボールのアニメ「アタックNO.1」が人気で、「わたしも五輪に出て金メダルを取って、いじめっ子を見返したい」と思ったのがバレーボールを始めたきっかけです。

 

◎夢を信じ、まい進

 中学二年のとき、日立のバレーボールチームが近くにあることを知り、山田重雄監督(故人)に「どうしたらうまくなれるか教えて」と手紙を書きました。すぐに監督から「遊びに来ないか」と電話がかかり、カメラを下げて見学にいきました。あこがれのスター選手、江上由美さんや中田久美さんのユニフォームを借りて、練習にも出させてもらったんです。

 まさに夢心地でいたとき、監督から「おまえは左利きで背が高い。練習すれば五輪に出られるかもしれない」 とおだてられ、翌日から日立に通うようになりました。

 今思えば、中学生が学校の部活の後、日立で夜遅くまで練習するのはたいへんです。でも夢の場所にいられるだけで幸せで、苦しいと感じなかったですね。自分でも目が輝いていたと思います。

 うまくなる秘けつは、何事も人より頑張ることに尽きます。私は夢という言葉が大好きで、努力すれば必ずかなうと信じています。大人は日々の暮らしに追われがちですが、ときには自分を振り返り、目標を見つめ直してみたいもの。みなさんはもったいないと思う時間が増えていませんか。

 

◎心と体を健康に

 高校卒業後、日立に入って二年目、ソウル五輪出場が決まりました。うれしかった一方で、夢をつかみ安心してしまった部分がどこかにありました。本当は、次の目標に向かってすぐ走りださないとダメなんですね。監督から「緊張感を持て」と言われても、ホワホワした感じが抜けませんでした。

 五輪の一ヶ月前、監督が「リハーサルを行う。本番のつもりで臨め」と言い出し、男性コーチチームと対戦しました。結果はフルセットの末の敗戦。試合後、監督はハサミでネットを切り、キリでボール三百球に穴を開け「きょうの負けは五輪の負けと同じ。もう終わった」と言い放ちました。汗と涙が染み込んだ大切な道具を切り裂かれ、監督が憎いと思ったし悲しかった。でも、監督が身をもって五輪のつらさを教え、気の緩みをしかってくれたのです。

 本番の対ソ連戦でも、フルセットにもつれ込みました。11対13とリードされたときのこと、監督がタイムを取り、ニコッと笑って手を差します。手の中にはきれいな石ころがありました。長野で合宿したとき川原で拾った石で、「あのときのことを思い出せよ」と言ってくれたのを覚えています。「自分たちはソ連の選手よりたくさん練習したんだ。負けはしない」。合宿の苦しみがよみがえって勇気に変わり、19対17で勝てたのです。

 このときの感覚は、後々まで私の宝物になりました。特に試合で競っているときなど「ミスしたらおしまいだ」と緊張してしまう。そんなとき、対ソ連戦でわいた勇気、自身が支えになり、プレッシャ−を乗り越えることができました。 

 人間が百人いれば、百通りの考え方、人生があります。一回しかない自分のドラマを演じるには、夢や意欲を持つことが大切。挑戦を続けるためにも、スポーツで心と体を健康にしていたいですね。

 

◆おおばやし・もとこ

昭和42年東京都生まれ。中学1年からバレーボールを始め、61年日立入社。
ソウル、バルセロナ    両五輪に出場。
平成7年、イタリアセリエA・アンコーナに所属し、日本人初のプロ選手となる。
アトランタ五輪にも出場し、9年現役を引退した。
日本スポーツ少年団委員などを努めるほか、TV番組・CM出演、著作活動も行う。

 

 

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