わが半生の記 越中人の系譜 溝口 進J
                                                     平成21年5月29日(金)北日本新聞

とやま国体
 平成3年の旧福野町合併50周年に続いての大きな目標は、12年の「2000年とやま国体」を成功させることでした。福野町ではなぎなたとバスケットボールの競技会場として、3,000人収容の福野町体育館(現南砺市福野体育館)が10年10月10日に完成しました。

  スポーツ振興には、町長に就任した当初から力を注ぎました。昭和62年に7地区でスポーツクラブが設立され、これらを束ねるスポーツ連合も設立しました。とやま国体が契機となり、総合型地域スポーツクラブが県内各地でつくられましたが、福野地域では、「ふくのスポーツクラブ」が国体の2年前の平成10年に県内第1号として発足し、けん引役を担いました。全国にも誇れる先進的な取り組みで、現在も会員数は3,600人余りで県内最大規模です。

 スポーツ振興の一方、学校教育でパソコンの普及にいち早く着手しました。教育は人と人との関係が第一であることは言うまでもありません。しかし、私は、子どもたちが社会に出た後、パソコンを道具として使いこなす要素が求められる時代になると感じていました。県下に先駆けて、昭和63年に福野小、61年に福野中にパソコンを導入し、小、中、高校の先生方による研究会も組織され、63年にはコンピューター教育全国研究発表大会が吹くので開かれ、本を出版するほどの成果を上げました。

 県商工労働部に勤務していた経験から、期待を一身に集めた商工業振興では、中心部で未開発となっていた福野寺家新屋敷の11.4ヘクタールの土地区画整理事業を進めました。5年に広い駐車場を備えたショッピングゾーン「ア・ミュー」が完成し、さまざまな会合に使えるホールも併設しました。隣接して温水プールがあるスポーツクラブとホテルが立地したほか、道路をはさんだ向かい側にJAとなみ野コープとなみ野エレナ店もオープンし、商業集積と近代化が図られました。工業関係は、既設の日平トヤマ(現在のコマツNTC)の拡充と、いくつかの企業を誘致することができました。

 旧福野町議会では中選挙区制が採用されていました。町議は互いに我田引水の要望や地域エゴを言わない不文律があり、町の事業がスムーズに進んだ半面、若い人が立候補しにくい短所も指摘されたことから、私の在職中に大選挙区制に改められました。

 県町村会では、平成7年から副会長、9年から会長をそれぞれ2年間ずつ務めさせていただき、忙しいながらも充実した日々を送ることができました。(前南砺市長)

 

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